継体天皇 即位千五百年

  混迷を深める内政と緊迫の度を増す国際関係。五〜六世紀、危機に直面した日本に越の国から一人の指導者が現れ大王となる。 後に国の「体系」を「継」いだという意の名をおくられた第二十六代継体天皇。 継体の武器は越の国で、はぐくんだ斬新なアイデア。 最先端の帆船と馬を駆り、近江や尾張、美濃の「地方」勢力と手を携えて五十八歳にして中央の大王位に上り詰めた。 史上例をみないその即位から今年千五百年を迎える。

  九頭竜川、日野川、足羽川が運んだ土砂によって、約三千年前に作り出された福井平野。 三方を山に囲まれ当時は河口に大きな潟があった。 この豊かで穏やかな土地が継体に力を付けた舞台だ。九頭竜川が平野に注ぎ込む旧松岡・丸岡町の両岸には越の国(敦賀以東の福井・石川・富山・新潟地域)でも最大級の古墳が連なる。この地が振媛(母)の故郷で幼くして父と死に別れた母子が挙りした場所ではないかと研究者の多くは考えている。
  継体は四五〇年ごろ、現在の滋賀県高島市で生まれた。父が早くに亡くなり、母は子を育てるため故郷、越に帰ったとされる。即位話が持ち上がったのは五〇七年。日本書紀に即位までの経過が詳しい。大和政権が継体擁立を決めたのが一月四日。前帝武烈が亡くなり、跡継ぎが見つからない混乱のさなかだった。すぐに使者が送られ六日には継体の元に到着する。大和政権は権力闘争から疲弊していた時期。河内の友人から即位を勧める使いが来てもすぐには心が決まらず、数え年で五十八歳になる熟年の王は二日三晩悩み抜いた。 しかし決断してからの行動は早かった。十二日には即位の場所となった大阪府枚方市の樟葉宮(くすはのみや)に入っている。使者が到着してからわずか七日で、継体は人生のかじを大きく切ったのだ。

  決断までの五十年以上継体はどこでどう暮らしたか史書はほとんど何も伝えていない。何を見、何をし、何を感じて成長したのだろう。肥沃(ひよく)な福井平野は経済力という力を継体に与えただろうか。嶺北の古墳から出土する朝鮮系の冠や耳飾りは、越の国の人々が独自の外交を行い、中央の豪族が知り得ない新しい時代の風を感じていたことを物語るのだろうか。大陸系の角杯土器や朝鮮半島と製法が似た韓式系土器は、この地にも渡来人が移り住んだことを示すのだろうか。「類型的な古代の天皇の中で最も個性的で活動力を感じるのが継体天皇」。継体研究をリードし、県史編さんにも携わった京都府立大名誉教授の門脇禎二さん(81)はそう評する。「継体は水軍と騎馬隊を擁した。従来の政権とはまったく質の異なる恐ろしい軍勢で中央の勢力に圧力を加え続けただろう」。門脇さんの持つ継体へのイメージだ。

  なぜいまに至るまで一度も例のない「地方」出身の大王が、この時誕生したのだろうか。なぜ越の国の継体だったのか。なぜ海や川を押さえ、馬を手中にできたのか。
  樟葉官は、それまで大和政権の拠点だった奈良盆地ではなく近畿の水運の要衝、淀川沿いに設けられた。越に育ち、九頭竜川や日本海の水運に親しんだ継体ならではの発想だったのか。即位千五百年を機に謎に満ちた継体の生涯をたどり現代に生きるわれわれが学び取れるものがないか探っていきたい。

平成19年1月1日(福井新聞 大王がゆくより )

      

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