一乗谷朝倉遺跡 出土品と越前漆器

 国の特別史跡・一乗谷朝倉遺跡(福井県福井市)は本格的な発掘調査が始まってから三十五年がたつ。 戦国武将朝倉氏の館、武家屋敷、町屋跡などから武具、生活用具をはじめ多彩な出土品があった。 中でも、昭和四十年代後半、注目を集めたものの一つに漆器があった。
 「それまで律令時代の漆器は、他の遺跡で多少見つかっていたが、身分の高い人が使っていたとみられる程度のものだった。 戦国時代の町からまとまって出土したのは、全国でも例がなかった」と県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館の南洋一郎主任は語る。
 漆器は、水気の多い井戸や溝から数百個単位で出土した。 椀や皿をはじめ、甲冑(かっちゅう)、家具、石臼にまで漆が塗ってあった。「当時、生活の隅々にまで漆が浸透していたことが分かった」と南主任では、どうして中世にこれだけ漆器が普及するようになったのだろう。

 石川県の西柳嘉章・漆器文化財科学研究所所長は、一乗谷朝倉遺跡をはじめ各地の遺跡から出土する漆器の塗膜を分析した。 その結果「漆の代わりに柿渋と炭粉を用いた「渋下地」という塗装方法が出現したことが要因」と突き止めた。漆を何層にも塗り重ねていた上塗りも、一、二層に簡略化されていた。
 渋下地の技法は、青森県や新潟県の十一世紀代の遺跡で確認されている。 北陸、関東以北では十二世紀以降に普及し、中世・近世漆器の主流となった。 漆の使用量を節約し、見た目は高級な渋下地漆器。この「技術革新」が大量生産を可能にし、漆器の普及を加速させた。

 一方、西柳所長は色彩の変化にも注目する。平安時代には三位以上の貴族しか使えなかった赤色漆器が、十四世紀になると地方でも流通し、十六世紀末には農村でも使われ始める。そこに、「町衆の台頭や農村の自立」という時代の大きなうねりをみている。

 一乗谷から山ひとつ隔てた鯖江市河和田地区は越前漆器の産地だ。
 六年前、越前漆器協同組合青年部が、
一乗谷朝倉遺跡から出土した漆器の複製品づくりに挑戦した。塗り師や蒔絵師らが先頭に立って、椀や皿七点の複製品を仕上げた。
                                  福井新聞 (よみがえる 漆文化より)


 当時、青年部の部会長だった私は、部員達と共に出土品が作られた時代背景を創造しながら製作した事を思い出します。 当時は、電動ロクロもない時代、手回し轆轤を使用して作られたのではないか。 地の粉は後の開発品。 当時は貴重な漆も大量に使うことも出来ず柿渋と松煙を使用して下地したではないか?
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